1984年、放送作家として活躍し、「劇団東京ヴォードヴィルショー」の若手公演の演出を手掛けていた喰始(たべはじめ)さん、久本雅美さん、佐藤正宏さんらとともに「ワハハ本舗」を立ち上げた柴田理恵さん。
メンバーみんなで「あくまでお笑い」という姿勢で、一丸となって面白い舞台を目指していたと話す。今や舞台はもちろん、テレビ、映画、CM、ラジオのパーソナリティーなど幅広い分野で引っ張りだこの柴田さんだが、「ワハハ本舗」を立ち上げた当初は大変だったという。
◆事務所兼稽古場は青山の一等地、一番汚い種族だった?
1984年6月、「ワハハ本舗」を立ち上げた当初は、まだみんな無名でお金もなかったという。
「最初は、喰さんが放送作家として稼いだお金で事務所兼稽古場を借りました。
だから、喰さんがいてくれたからこそ、ワハハは持ったなって思いますよ。
小さな劇団というのは、お金なんてありません。劇団員みんなバイトをしてお金を持ち寄って、それで公演を打つ。稽古だって、公民館のようなところを申し込んで、移動しながらやっています。
衣裳や道具を置いておく場所もありません。自分の部屋は狭いですし、倉庫を借りるお金なんてもちろんない。芝居の内容ではなく、こういうことで失くなってしまう劇団も多いです。
だから喰さんが、まず『そういうことにならないように、僕がお金を出しますから』って言って、稽古場を借りて下さって。そのおかげで道具の置き場所も困らないし、稽古も朝から夜中まで自由にできたので、本当にそれはありがたかったです」
−場所を決めるのが大変だったそうですね−
「そうそう。まず稽古場を探すとなったら、だいたい安いところって思うじゃないですか。
それで新宿を中心として考えたら、新宿近辺だと高いので、中央線沿線と西武新宿線沿線、あと山手線の上側、池袋方面ですね。この3チームに分かれて探したんです。
私と久本が中央線沿線を回り、他の人は西武線。それで、山手線の上側を回っていたのが、うちの佐藤(正宏)だったんですけど、飛び込んだ不動産屋さんが、『青山に物件があるぞ』って言って。
『青山?青山なんて家賃高いよ』って言ったら、そこは大工さんの資材置き場。青山学院大学のすぐそばの地下に大工さんの資材置き場があったんです。
そうしたら佐藤君の家が大工さんで、親の職業だからシンパシーを感じたみたいで、『大工さんだったら安心だよ』って言うんですよ。私たちも『そうかなぁ』って(笑)。
喰ちゃんも、私たちが色々探して来ても『遠いところはだめだよ。あんまり遠いところに行くと貧しい気持ちになるからだめだ』って言っていたんだけど、青山ってなったら、『青山?だったらいいよ』ってなって(笑)。青山の一等地にしては格安のお値段で貸して下さったんです」
−青山で格安というのはすごいことですね−
「すごいですよ。一等地ですものね。バブル前だったから、青山もそこまで派手ではなかったんですよ。まだ日用雑貨店があったり床屋さんがあったり、普通のところだったんですけどね」
−幸先の良いスタートでしたね−
「そうですね。『事務所はどこ?』って聞いて『青山』って言われたら、『えーっ?!』って思いますもんね。でも、多分あの界隈(かいわい)で、1番汚い種族だったと思いますよ(笑)」
−稽古をしながらアルバイトですか?−
「そうです。アルバイトは大学を卒業してからですけど、ビル掃除とか、銭湯とかでバイトして。みんなバイト時間をやりくりして交代で電話番をして、毎日稽古をして毎日飲んでいました」
◆変なことをやる面白い人たちとしてテレビに
「ワハハ本舗」の旗揚げが25歳のときで、その1年後には『今夜は最高!』(日本テレビ系)に出演することに。
−久本さんと柴田さんはわりと早い時期からテレビにも出演されていましたね−
「ワハハができて1年経つ頃には、わりと注目され始めて。それはなぜかというと、ちょうど漫才ブームが終わって、でもそのあとのコントブームとかボキャブラ世代とかが出てくる前で、すきまの時代だったからです。
もちろん漫才師の方はいらっしゃるし、寄席では芸人さんがいらっしゃるけれども、ニューウェーブがいないというか。それで、『変なことをするやつらがいるぞ、面白いぞ』っていう風になって。
あの頃はディレクターの人や放送作家の人とかが、いろんな舞台を見ていて、『あいつは面白い』とかって、なっていたじゃないですか。そういうアンテナにひっかかって。
うちの喰始がお笑いの放送作家だったというのもあって、その仲間の方たちが引っ張ってくださいまして、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)だとか、『今夜は最高』とか、そういう番組に出ることになったんです。
でも、テレビなんていつクビを切られるかわからないでしょう?だから、そこから1年はバイトしてましたね。27歳になるかならないかぐらいまでバイトしてたんじゃないかな」
−それでもアルバイトをされていた期間は短いですね−
「そうですね。4、5年ぐらいしかしていないですからね。普通だったら、10年、20年アルバイトするというの当たり前ですもん」
−バラエティー番組などに出るようになったときは、いかがでした?−
「最初はよくわかってなかったですよ。ただ言われたとおりに『ハイ!』ってやるだけ。『へー、面白いなあ。スターもいっぱいだー』ってやっているぐらいでした」
−テレビで最初見たときはかなりインパクトがありました。腰にアヒルのヌイグルミを付けたり−
「そうそう。『今夜は最高』では、本当にいろんなコントをやらせていただきました。
変な格好もしたなあ。変な格好キライじゃないし(笑)。楽しかったですよ」
−ものすごいインパクトがありました−
「そうかもしれないですね。『この人たちって何なんだろう?』って。わけわかんない感じの人たちだったですよね(笑)。でも、あとで考えると、振付の土居(甫)先生や、歌唱指導の先生や超一流の方たちに教えてもらったんですよ、ありがたいことに」
−そしてドラマや映画にも出演されるようになりました−
「ドラマといっても、大役でもないし、気楽にやっていたと思うんですけど、だんだん難しさがわかってくるというか。それで縮こまってしまう自分もいたり、それでも頑張ろうと思う自分もいたり…。
最初は楽しかったけど、自分の立ち位置はどこなのかなみたいな感じで。まだ舞台のほうもそんなに安定しているわけでもないし、相変わらず、悩むは悩む。
どうやってもあまり爆笑は取れない、そんな状態なのに仕事は来る。でもそれはありがたいことだ。そういう自分のなかでしっかりしたものが欲しいなって思う20代後半だったかな」
1987年、28歳のときに柴田さんは大学時代の同級生で「ワハハ本舗」の舞台監督と結婚。仕事にも精力的に取り組んでいく。
−ドラマや映画の撮影で苦労されたことは?−
「ありますよ。いっぱい怒られました。『なんでお前は自分のセリフばっかりしゃべろうとするんだ、人のセリフを聞かないんだ?』とかね。
本当にそうなんですよ。そういう基本的なことがわかってなかったりしたんです。だから落ち込んだことは山ほどありました(笑)。もう怖くなっちゃって、なんか妙にドキドキして、余計にセリフが覚えられなくなったりして。
そのたびに『嫌だなあ、怖いなあ』って思ってやっていました。それで、ある舞台の稽古に行ったら、そこは本当に厳しいところで、毎日行くのが嫌で怖くて怖くて、『結局何もできないんだなぁ』って思うことも結構ありました」
−でも、ドラマとか映画に出るとご両親お喜びになったでしょう?−
「それは喜びましたね。なんといってもNHKに出るのが1番喜びました(笑)。田舎はやっぱりNHKなんですよね。『週刊こどもニュース』(NHK)に出たときには大喜びでしたよ。朝ドラとかも」
−とてもバランス良く、テレビ、映画、舞台も出演されていますね−
「最近ようやくバラエティーはバラエティーですごく楽しいもの、全然別のものって考えられるようになりました。逆に舞台で煮詰まったりしていると、バラエティーで気分転換ができて楽しいです。
でも、ずっと順調だったわけじゃないです。仕事がないときもありましたよ。でも、そんなときも劇団の舞台だけはあった。ワハハの全体公演以外に、年に3本はやっていました。
私と佐藤(正宏)でラブストーリーっていう、それこそ台本から作っていくような小さい作品ですけど。これを着実に12年くらいはやったかな。
だから、『私はちゃんと舞台をやっているんだ、なかなか売れなくてもちゃんと舞台をやっているんだ』っていう思いでいられました。なので、ねたんだり、クサッたりすることはなかったんですよね。
それもやっぱり喰さんのおかげだなと思うんです。喰さんは『テレビで売れようがどうしようが、舞台はきちんとやりましょう。柴田は役者をやりたいんだから、舞台をきちんとやりなさい』って言ってくれたし、一生懸命作りながら、台本というのは、こういうことが大事なんだとか、コメディーとはこういうものが大事なんだとかいうこともいろいろ教えて下さって。
結局そういうことが、その後にまたいろんな劇団に出たりしたときにも役立ちました。『この役はこういう人なんだから、もうちょっとこうした方がよくないですか?』みたいな提案をしたり、演じ方をこうしたほうがいいかなとか考えられるようになった。勉強になって良かったなって思っています」
◆映画の鬼気迫る霊媒師役、野生爆弾・くっきーさんとの共演も話題に
バラエティー番組では庶民的な明るいキャラで人気の柴田さんだが、映画『来る』では普段とは全く違う姿で女霊媒師を熱演。鬼気迫る演技で圧倒したかと思うと、白塗りメイクでおなじみの野生爆弾・くっきーさんとのドッキリ共演も話題に。
−『来る』の霊媒師役が強烈でした−
「あれはうれしかったです。あの役をいただいて本当に幸せでした。先日、ラジオであの映画のプロデューサーの川村元気さんとお話しする機会があったんです。
そのとき、『あの霊媒師は柴田さんだってピンときた』とおっしゃって下さってうれしかったです。いろんなことをやってきて、なんでも無駄なことはないんだなぁって思いました」
−柴田さんが演じた霊媒師はカッコいいという女性が多かったですね−
「そうなんですよ。びっくりしちゃった。うれしかったですよ(笑)」
−祈祷(きとう)シーンの迫力もすごかったです−
「あれはもうわけのわからないセリフがいっぱいでね。言ったこともない呪文がいっぱいで、わけわからんなあって思いながらやっていました。
しかも津軽弁でしたから本当に苦労したんですよ。まず津軽弁というのと、意味もわからない言葉『けやくのむしはけやくのところにおさめるべし』って何だろうって思いながら、本当に大変だった(笑)」
−映像も声のトーンも鬼気迫るものがありました−
「中島哲也監督がすごいんです。すごく的確な演出をなさる方で、その監督のおっしゃる通りに、一生懸命やろうって。OKが出るまで、何度も何度もなさるんですけど、本当にそうしていただいて幸せでした」
−劇中では刺青もされていましたね−
「あれは6時間もかかったんです。6時間ずっとうつぶせになって背中に刺青を描いていただいて、しかもその刺青が見えたのは、背中を切られて死んだときだけですからね。
『6時間もかけた刺青がたったあれだけ?』って思いましたけど、自分のことはさておき、周りの人がすごくて面白いなあって。映像がやっぱり良かったなあ」
『来る』の霊媒師役も強烈だったが、野生爆弾のくっきーさんとの白塗り共演も話題に。多くの芸能人を白塗りメイクで表現してきた野生爆弾のくっきーさん。なかでも柴田理恵さんの白塗りモノマネは、そのインパクトから大きな話題となっていたが、『うわっ!ダマされた大賞2018夏』(日本テレビ系)で初共演。2Sの白塗りメイクも披露した。
「よく似ているもん。だから、私はくっきーと基本的な顔の作りが似ているんだと思って、マジマジと見ちゃった(笑)。
くっきーがやる私を真似(まね)して白塗りもしたし、楽しかったですよ。ソックリなんだもん(笑)」
モノマネをされると怒ってしまう人もいるが、柴田さんは一緒に楽しむおおらかさも魅力。次回後編では遠距離介護、愛犬・晴太郎君との出会いと別れ、ワハハ本舗全体公演『王と花魁』を紹介。(津島令子)
※ワハハ本舗全体公演『王と花魁』
2020年5月27日(水)〜31日(日)なかのZERO 大ホール
<全国18ヶ所24公演〜7月19日(日)>
構成・演出:喰始
出演:柴田理恵 久本雅美 佐藤正宏 梅垣義明 ほか
お問い合わせ:WAHAHA本舗 03(3406)4472
"汚い" - Google ニュース
April 03, 2020 at 05:40PM
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