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ジュディ・ガーランド――ハリウッド・レジェンドが私にくれたもの - ハーパーズ バザー・オンライン

 ジュディ・ガーランドは、2歳の時から彼女を愛する観客のため演じることにその波乱万丈な人生を捧げてきた。予期せぬ死を迎えてから50年が経つ今年、レネー・ゼルウィガーが自伝映画でジュディを演じる。今でも輝き続けるジュディ。彼女が遺したものは私たちに何を伝えているのか。小説家スージー・ボイットがこのハリウッド・レジェンドに対する愛を語る。

スージー・ボイット(Susie Boyt):ロンドン出身の小説家。精神分析学の先駆者として知られる、ジークムント・フロイトは曾祖父にあたり、姉はファッションデザイナーのベラ・フロイド。昨年9月19日にVirago出版より、回想録『My Judy Garland Life』の再発売が開始された。


 ジュディ・ガーランドは20世紀の、いや20世紀に限らず、これまでで最も偉大なエンターテイナーだった。彼女の歌声は心を鷲掴みにする。彼女ほどの力を持った歌手は他には居ない。47年間の生涯のうち45年間にわたるキャリアの中で、その演技は彼女という素材が与える明らかな軽さを超え、製作者すら想像し得なかった深いウィットと知性と感情を注ぎ込む。

『オズの魔法使』(1939年)でどこか遠くに行きたいと願った青いギンガムチェックのドレスを着た少女から、『イースター・パレード』(1948年)で名声と愛を求めた優雅かつ滑稽な役、映画界から去った後の歌手活動を通して、彼女は全人格を観客へ捧げ、更に「夜通しみんなで歌って過ごしましょう!」と、より多くを与えようとするガーランドの純粋で混じり気のない気持ちはぶれることが無かった。

Fred Astaire and Judy Garland Dancing
『イースター・パレード』(1948年)でフレッド・アステアと共演。

BettmannGetty Images

 ジュディ・ガーランドの歌声を聞くと、自分の過去の喜びや悲しみの波が鮮やかな記憶として蘇ってくる。成功、過ち、損失、トラブル。言い逃れは出来ない。全てが爽快な通過儀礼であり、賞賛と悲観が必要だ。その二つが同時に襲ってくることもある。

彼女の歌声が膨らんでいくと期待に胸が広がり、まるでレコードプレーヤーの針がレコードではなく生命そのものの上に置かれているのではないかと私は感じるのだ。『The Man That Got Away』、『Look For The Silver Lining』、『Me and My Shadow』などの曲には自分と重なる部分があまりに強すぎて、どこまでが彼女の感情でどこからが自分の感情なのかの境界線が分からなくなる。

 ガーランドはグラマーとフランクさが互いに臆面も無く近づき、競り合う新しい演劇の表現法を作った。コンサート会場で観客と彼女が共鳴して生み出す調和は誰にも真似出来ない。彼女は興奮して頻繁に廊下などで倒れてしまうこともあった。その声は人々を解放し、癒すと同時に彼女も癒しを求めていた。1951年にニューヨークのパレス劇場で開催されたコンサートについて、『LIFE』誌にはこう書かれている。「シアターに集まった人々はコンサート後も何日間も涙を流していた。ブロードウェイの周辺の人々はまるで奇跡を見たようだと話していた」

Crowd Outside Palace Theater for Judy Garland Performance
1951年、ニューヨークのパレス劇場で開かれたコンサートに集まるファン。

BettmannGetty Images

1961年にカーネギーホールで開催されたショーは、ショービジネス史において最高の夜と例えられるが、そのことについて『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「狂乱するほど精神が高揚した」と記している。『ロングアイランド・プレス』の記者は、もし会場に火事が起きても観客はそこに残り、燃え尽きる方を選んだだろうと断言している。『ハリウッド・リポーター』は更に踏み込んで、「彼女の仲間のプロフェッショナルな音楽家たちも、彼女と競り合うことはしない。誰もが彼女のことを最も偉大な歌手だと言う」と書いている。

 私は感受性が高く、臆病でいつもめそめそしている子供だった。スーパーのレジの脇にある棚の売れ残った割引商品の山を見て、あの商品はどうなるのだろうと心配するような子供だったのだ。今でも出来ればそのような商品を買うようにしている。いつも周りの人からは「次から次へと襲ってくる感情に振り回されていたらだめよ。強くならないと幸せな生活を送れないわよ」と言われてきたような気がする。4歳か6歳の頃にこう言われるのはなかなかしんどいものだった。でもどうすればいいの? その答えは誰も教えてくれなかった。

 脆い私の世界の中に突然ジュディ・ガーランドの声がやってきた。初めて母と映画館に行った。ドロシーが『虹の彼方に』を歌い出した時、私は衝撃で固まり、じっと耳を澄まして聞いた。私の前にいた人の感情が私と同じように高揚しているのを感じた。その人は自分の気持ちを隠すことをせず、恥ずかしがることも無かった。その代わり、人生で最高の目に遭ったと言わんばかりにその強い感情と共存していた。私はとても深い結びつきと共通点をその人に対して感じた。もちろん当時の私にはそれを言葉にして表現することは出来なかったのだけれども。徐々に苦痛と感じるようになった非常に感情的な私の性格を、ガーランドはただ単に私の素養として受け入れられれば良いのではと思わせてくれた。私はスクリーンの中に飛び込みたい気持ちになった。

The Wizard Of Oz
『オズの魔法使』(1939年)

Silver Screen CollectionGetty Images

 それから私は時間があれば彼女の映画を見て、歌声を聞いた。ガーランドの初期の演技はとても楽そうで自然に見えた。「彼女にはどこか森林のようなところがある」。映画『イヴの総て』の脚本家であり監督のジョセフ・L・マンキーウィッツが語っている。「彼女の頭の上にはいつもみずみずしい露があるようだ」と。台本の中では平凡に見えるプロットを最上かつ永遠のものにする才能があった。

『グッド・オールド・サマータイム』(1949年)を例にとってみよう。これは遠くに文通相手を持つ楽器店で働く少女のストーリーだ。ガーランドはまるでジョン・キーツの豊かな詩が人の心を動かすようにその才能と性格の力で作品を光で満たした。ニューヨークに転居しようとしていた大家族の生活を一年間記録した『若草の頃』(1944年)では、家から出たいが安全と家庭の温かさを望む思春期の少女の役でテクニカラーのスクリーンを埋めた。

 より重い役を与えられた時も、ガーランドは驚くほどの技術の高さを見せた。白いミンクのコートから映画製作に使用される照明器具のクリーグ・ライト、酔っ払いが送り込まれる夜間法廷に至るまで、ハリウッドすべての熱を取り込んだ映画『スタア誕生』(1954年)でアカデミー賞にノミネートされた彼女の演技は複雑で、エネルギーがほとばしり、絶望的で、時に繊細で、必要とあれば大げさだった。ショービジネスの融通のきかない性質は、彼女の手にかかると人間性に溢れた深い内容に変化するのだ。

ジュディ・ガーランド
『スタア誕生』(1954年)

Everett CollectionAflo

 1963年から64年にかけてアメリカで放送された彼女の冠番組で『Ol' Man River』をガーランドが歌った写真を見た。彼女の激しい感情移入に私は圧倒された。有名な白人女性が南部のアフリカ系アメリカ人の過酷な労働の惨めさを歌うことは思い上がりだと考える人もいるだろう。けれど彼女が歌う姿を見ると、ほんの一瞬さえもそんなことは思えないのだ。世界にはこのようなことが時折起こる、とガーランドは歌う。病んで腐った、刀より鋭い世界。このようなことは絶対に許されてはならない、と歌う。

 私は21歳になった冬に何度もこの映像を見た。私は当時一人暮らしをしていて、初めて出来たボーイフレンドがオックスフォードの山の事故で亡くなった直後だった。私は絶望していた。何の希望も無くなり、恐れと衝撃と落胆が次から次へと高い波のように昼夜を問わず襲ってきていた頃だった。

この曲を通し、ガーランドがさまざまな人種を代表して私に謝罪してきているような気がしていた。今は本当に最低の時期、これほど悪いことはもう起きないから、と彼女が私に歌っているようだった。今住んでいる地球より生命力にあふれている場所は無い、と。このように感じていた当時の気持ちを私は回想録に書いた。自分の人生とガーランドの人生を重ね、愛と悲しみ、救い、勇気、名声について書いたものだ。

 今年、レネー・ゼルウィガーがルパート・グールド監督による『ジュディ 虹の彼方に』で主役を演じる。共演者は『ワイルド・ローズ』(2018年)で主役を演じて大評判だったジェシー・バックリーだ。

この映画の中核になるのは、1969年の彼女の死の数ヶ月前にロンドンのウエスト・エンドにあるトーク・オブ・ザ・タウンで数回にわたり開催されたコンサートだ。彼女は子供の頃からの薬物依存と働き過ぎの影響で非常に弱っていた。手持ちの金も少なく、この先何の予定も無く、家と呼べる場所も無い状態だった。

しかし彼女の“見事に大胆な情念”は『イブニング・スタンダード』紙で絶賛された。『ザ・ステージ』紙は彼女を“真心と愛情と情熱と笑いと涙で完全に充電されたガーランド”と称し、『フィナンシャル・タイムズ』紙は“ポピュラー音楽界のマリア・カラスだ”と称賛した。『タイムズ』紙は“劇場に起こる魔法というものの定義は何かと聞かれれば、これだと言うしかない”と書いている。この時のコンサートは、トーク・オブ・ザ・タウンの歴代のコンサートの記録をすべて塗り替えている。

『ジュディ 虹の彼方に』
『ジュディ 虹の彼方に』でジュディ・ガーランドを演じるレネー・ゼルウィガー。この映画でアカデミー賞主演女優賞を受賞。

Everett CollectionAflo

 ゼルウィガーもバックリーもガーランドのことが小さい頃から大好きだったと言う。彼女の才能と共感力と勇気に力を貰って生きてきたと声を揃える。「彼女は100年に1人の逸材だ」と、ゼルウィガーは私に書いて送ってくれた。とても嬉しかった。「映画の製作過程は、皆で協力しながら彼女へのラブレターを作っているようだった。これほど愛され、小さい頃から最高のレベルの仕事をしてきた人の人生がこう言う形で終わるとは想像し難い。金銭的にも、仕事面でも、自身の性格に対してもこれほど苦労していたとは。何事も諦めずに多くの問題に直面してきた彼女が手にし得たものを賞賛せずにはいられないし、尊敬しかないんです」と。

 バックリーもガーランドの演技の手法と人生に大変動かされたと言う。しかしバックリーはより慎重だ。「自分の弱さを徹底的に露わにし、誰にでも与える強さは非情とも言える」と彼女は言う。「彼女のことを知れば知るほど私は“これほどまで透明に生の自分をオープンにして傷つかないでいられるのだろうか、もし私だったらどうやればこのようになれるのだろうか”と思うのです」

 グールド監督は、ガーランド自身が自分の性分に反するように行ったように、そしていかに彼女が歌詞の中心に自分の命を置きながら、同時に全く逆の性格を演じられたのか、演じると言う気持ちをクローズアップで捉えられるような映画を作りたかったと語る。

スージー・ボイットの回想録『My Judy Garland Life』

スージー・ボイットの回想録『My Judy Garland Life』

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¥653

スターという存在は不思議なものだと彼は言う。「与えられた才能がその身を離れる時、それが薄れる時に、より優美になる...…」。女性であり母親であるガーランドの姿を見せることで、より人間味あふれる描き方をしたのだ。「彼女の率直で無作法な性格を描いたが、今でもまだとても近いところに彼女を感じる」と続ける。「この映画を見て、多くの人々がガーランドの映画や音楽を改めて見てくれることを願っている。そしてこれから彼女に出来ることは何なのか、想像してもらいたい」と締めくくった。

 私も心からそう思う。

Translation: Naoko Sugiyama From Harper's BAZAAR UK October 2019


2月20日発売のハーパーズ バザー4月号のシネマ特集では、『ジュディ 虹の彼方に』でジュディ・ガーランドを演じ、今年のアカデミー賞主演女優賞を受賞したレネー・ゼルウィガーをフィーチャー。この映画にまつわるレネーへの5つの質問をお見逃しなく。

また、『ジュディ 虹の彼方に』のムビチケをセットにしたハーパーズ バザーを一部書店で限定発売。誌面をチェックしてから劇場でご鑑賞いただければ、映画をよりお楽しみいただけます。

ハーパーズ バザー4月号×映画『ジュディ 虹の彼方に』ムビチケ特別セット
ハーパーズ バザー4月号×映画『ジュディ 虹の彼方に』ムビチケ特別セット

【セット価格】1,400円(税込)

【展開書店】
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February 19, 2020 at 05:36PM
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